Category: 雑感
Posted by: kaki

世の中は100年に一度の経済危機なのだそうだ。いまのところ「それがどうした」という気がする。

90年代に入って、アメリカは金融のハイテク化を押し進めた。あらゆるものが市場で売買できるようになり経済が活発になったことはまあいいことかもしれないが、現物を伴わない先物だけの売買や、オプション取引、金利のスワップなどあらゆるものが売買の対象になり商品化されてしまった。高度に理論的な金融商品が続々市場に繰り出してきた。そして市場は必要なものの売り買いの何倍ものサヤ取りを目当てにした取引が横行するようになった。株価は急上昇し、世の中は高収益を渇望するようになった。ザブプライムローンなどはそういった世の中のニーズに応える商品だったのだ。

バブルなどはじけてしまえば何が悪かったのかなどということはすぐに知れてしまう。経済がイケイケのときにはなぜかみんなものが見えなくなるのは不思議なことだ。それにしても90年代以降のアメリカのイケイケぶりと来たら…。何がまずかったかといって、世の中をお金主導のグローバルの渦中に巻き込んでしまった罪は深い。MBAがもてはやされ、企業はまず利益を上げることを強要され、儲からなければ従業員のクビをきり、成果主義が横行し、勝ち組がもてはやされ、カネを稼がないやつは無能の烙印をおされて放り出される世の中になってしまった。

カネは儲ければ儲けるほど良いという考え方がどだいおかしいのだ。アメリカの大企業のトップは年間にウン百億も稼ぐのだという。ちょっとこずるく稼ぐトレーダーなどには兆もの資産をためこんでいるものすらいるらしい。まったく下品なやつばらだ。いくらでも溜め込むのは自由だが、そのカネは幾多の人々を蹴落とし奈落の底に突き落としたあげくに稼ぎだしたものだと考えるとあまりおおらかな気持ちでもいられない。

この百年に一度の経済危機にあたり、これまでの悪行三昧をきちんと断罪しておくべきだ。アメリカのビジネスマン諸君よ!はっきりいってお前らが悪い。

Category: 雑感
Posted by: kaki

日本の国はどこまでダメになっていくのだろうと、最近のうるさいオリンピック報道にいらだちながらも改めて考える今日この頃。「日本がダメになって」きているというのはなにもここ一番の大舞台で力が出せない日本選手のことを言っているのではありません。むしろ品よく大事なところで相手に勝ちを譲ってしまうような愛すべき日本人の美徳をいとうしいとさえ思っているくらいです。世の中全てカネの力(ちから)で固めつくされ、その力を借りてあらゆるボディーコントロールとマインドコントロールが当たり前のようになされている中で、日本の選手たちはまだどこか純な部分を心の奥に留めているように感じられ、それはむしろ好ましいことだと。

では何がダメになってきているのか。彼らをとりまくあらゆる環境がと答えるほかないです。今のオリンピックの場合で言えば、それはもろにマスメディアの報道に現れています。何であんな過剰な演出を施すのか。何であんなにドラマチックで感動的な印象を煽ろうとするのか。NHKにしてあの馬鹿さ加減。それはもはやスポーツの報道ではないですね。絶叫するただの応援団です。勝ち負けやメダルの数や記録などにあれほどまでに異常に執着することができるものかと。そして何がダメかといって、そういう報道にやすやすと乗っかってしまう大方の国民。いやもうそういうことに覚めてきている人も出てきているとは思いますがまだサイレントマイノリティでしょう。

スポーツの成績もさることながら、この大会を通してどの国が世界のヘゲモニーを握ろうとしているのか、そしてそれがどういう将来をわれわれにもたらすのか。少なくとも我々日本人にとって明るい未来が開けているとは言えないようです。そんなことに全く無自覚で(あるいは気づかない振りをして)、『感動的な』オリンピックのスキームにそっくり乗っかって我を忘れているのが今のこの国の姿といわざるを得ないでしょう。

Category: 雑感
Posted by: kaki

この時期にしてまともな話題。

なぜか年金論議しか聞こえてこない今回の参院選挙。ほんとにみんな目の前にぶら下がったことしか見えない人ばかりという印象を受ける。なんで群がるかね、こう一つのことに。天真爛漫な少年のサッカーのようにみんなボールがあるところに集まってがなり立てるばかりだ。ボールを取り合っているばかりで試合の行く末がわかっていない。火事が出れば真っ先に現場に馳せ参じる若衆も必要だが、火の回りを見きわめるために山に登って指図する年寄りがいなくちゃ世の中回らないと思うのだが…。

せめて良識のある参議院議員ならばもうちょっと物事を引いて見ていただかないと。目先のことは衆議院に任せておいて少しは大局的なビジョンを示して貰えないものか。戦後をどのように総括するのか、新しい世界秩序を目指して日本はどういう役回りを演じていくのか、そして何より今の日本人、心が荒廃していないか。目先の戦術ではなくて、誰もが依拠できる大きな世界観を提示してもらわなければならないというのに。

というわけで、日本の未来はまだまだ暗い。

03/01: 銅価

Category: 雑感
Posted by: kaki

最近、銅線・銅地金の盗難が相次いでいる。あんな重いものを運び出して売り飛ばすなんて犯罪は昔は成立しなかったのに。銅の値段が異常に上がったためにこういう行為がペイするようになってきたらしい。いったい今銅はいくらくらいなんだと思いcomexのサイトで銅の価格表示を探してみた。アメリカ市場での銅の価格表示はポンドあたりのドル価で表示される。「2.8」という数字がそこにはあった。

実は遠い昔この銅のビジネスに少し関わっていたことがある。海外の銅鉱山から銅の鉱石を調達しそれを国内で精錬し、地金として販売する。銅は世界的に見ても供給が限られていて、いろいろな変動要因のせいで価格が安定しない。そういう物を原料として仕入れそれを売るにいたるまでには、結構な価格リスクが伴う。だから私がこの業界にいた当時は毎日銅の値段や受給バランスを注視していた。

その頃の銅価はいくらだったかというと1ポンドあたり60セントから70セントくらいではなかったかと記憶している。そのころは1ドルの大台に乗るだけでもむちゃくちゃな高値という感覚だった。それが今や2.8ドルである。浦島太郎状態の私にとってこの数字が何を意味するのかにわかにわからなかったのである。銅価を表す度量衡がかわってしまったのだろうかという錯覚すら覚えた。

なんでこんなに銅価が上がってしまったんだろう?銅原料の供給が急速に逼迫したとは思えない。私が会社をやめて間もなくチリの大型鉱山が操業を開始した。20世紀最後の大型銅鉱山プロジェクトと言われた「エスコンディーダ」という鉱山だ。それに価格が上がってくればかつて不採算で閉山に追い込まれた鉱山も息を吹き返してくる。

需要が急激に伸びたのだろうか?当時としては予想もしなかったことだが中国の著しい経済振興の影響で銅のような生産材の受給が逼迫していくのかもしれない。鉄や原油の値段も高騰している。そして銅の場合は鉄に比べると流通量が極端に少ない。(100分の1位のスケールだろうか。)だからふところが狭い分、急な需要増に供給が追いつけないというのは想像に難くない。

Category: 雑感
Posted by: kaki

昨晩久しぶりにテレビの前に長時間居た。NHKで団塊の世代のリタイアをめぐっての視聴者参加型討論を延々とやっていた。私は団塊の世代ではないが団塊の世代はどんなものかというイメージ(あるいは偏見)は持っている。ここではその団塊の世代がああだこうだというのはひとまず置いといて、この番組で出てきた議論、言説を表層的に見た感想を述べるにとどめる。

この討論番組に参加していたのは、どういう基準で選ばれたのかは定かではないが、団塊の世代に属する人、属さない人合わせて十数名。テレビに普段よく出ているとおぼしき有名人(堺屋太一、崔洋一、宮台真司、金子勝、谷村新司、丹羽宇一郎、女性の実業家…)。これらの人々が今の日本から正しくサンプリングされているわけはないであろう。第一、テレビなどのパブリックの前でそれなりに意見を述べることのできる日本人はかなり限られている。したがって参加者はラウド・マイノリティの方々だと思った方が良い。

テレビらしくわかりやすい二項対立をまず設定する。「団塊の世代は社会に貢献したか、問題を残したか?」「リタイアした後地方に移住するのは是か否か」設問自体はアホだと思うがそれをきっかけとして色々な考えが引き出されていくのであればまあそれも方便という気はする。しかしやはりその設問のコンテキストで話を進めていくとやはり即物的な、いささかカサカサとした展開にならざるを得ないように思える。少し離れてこの議論を眺めていると、そこに浮かび上がるのはみんな「自分のため」に生きて来たし、そのためには数々の競争のなかをくぐり抜けて来たし、それのどこが悪いというやや無反省の日本人の姿だ。

話の大部分が経済に関する事であり、損か得かが重要なファクターを占め、少々手前勝手の論理を押し通す。団塊の世代がという主語ではなくて最近の日本人は、という主語で語ってもさして変わりはない。経済的に豊かである事がわれわれの国是になってしまった感がある。

団塊の世代が働かなくなってしまうと少子高齢化の中でそれを支える世代が困るという議論は、やはりその延長線上に「生む機械」という発想がつながっている様に思える。あれだけ柳沢発言に反発しておきながら結局本音は同じという自己矛盾が透けて見えてくる。年金などという再配分システムは社会の構造とともに柔軟に変化していかなければ機能しない。日本人は自分で自分の事はやる「自己責任型」に変貌してきたのだし、「他人の面倒など一切見ない」のが普通になってきた以上、ひとに面倒を見てもらう人を少なくしていくほかない。従って団塊の世代はこれから。悠々自適の隠居生活を始めようなどというのはお門違いで、70、80まで働かなくてはならないのである。80まで世の中で働いていく事が国民の幸福だという価値観が案外生まれてくるのかもしれない。

Category: 雑感
Posted by: kaki

確かに「産む機械」という例えはどの方向から見ても美しい表現ではない。それに反応する世論というのもまあわかる気はする。しかし、あまりに脊髄反射的なリアクションは危うい気がする。「女性を機械にたとえるなんてもってのほか」というたぐいの極めて視野の狭い議論ばかりが世の中を沸騰させているように思う。こうなると猫も杓子も、与党の議員にいたるまで口を揃えて批判するようになってくる。

少し冷静になって考えると、政策や経済やマネージメントなどといった「カタい」世界ではあらゆるモノを機械と見なして動いているのである。あらゆる物が「機能」し、「生産」するという前提で世の中を作り上げ、我々はそれにドップリと浸かっているという実情にもう一度気づこう。あらゆるモノを物や機械として世の中が動く事によって、便利になり豊かになったと我々はどこかの時点で割り切ったのではなかったのか。子供を産み育てるなどということはこういう効率重視の世の中にとって適応しづらい行為になってきたということだと思う。

「少子化対策」などという思考法はこういった効率のみを重視する「カタい」世界で生み出される。「産む機械」という発想はこういう政策の考え方から地続きで出てくるものだと思う。したがってこれを発言した柳沢厚労相は何でこの例えがまずいのか多分未だに理解出来ていないのではないかと思う。むしろ与えられた課題に対して極めて実直に考え行動しているのだと確信しているはずだ。こんな「良識的」で小物の政治家を糾弾してもしょうがないではないか。

もはや「産む機械」発言批判が一人歩きしている。問題なのは話を極力単純な形にしてピンポイントで吹き上がっている事だ。マスコミの論調は恐ろしくわかりやすい形で設定され、しかも怒る国民(特に女性)を演出しようとする。世の中は皆感情的に反応し、誰もこれに逆らえない空気が出来上がっていく。こういう事態は戦前にもあったように思う。あの天皇機関説問題だ。天皇機関説の内容も把握出来ないような浅薄な議員が「天皇を『機関』に例えるとは何事か!」といい出し、誰もこれに反論出来なくなったあの事件だ。

「産む機械」という表現に何故これほどまでに人々が違和感を抱くかという事の本質に思いをいたすべきである。「いけねえ、いけねえ、俺たちは機械になっちまうところだった。機械でない人間を取り戻すべきだ。だからうわべだけの便利さや豊かさはもうごめんだ。」という動きにみんながなっていけばいいんだが。

Category: 雑感
Posted by: kaki

文芸春秋1月号

巻頭のエッセイを拾い読み。

「国家の堕落」というタイトルで藤原正彦が寄稿しているが、多分論調は「国家の品格」の延長だと思うのでパス。

「激突!日中大論争」はなんだか不毛の論戦が延々繰り広げられている感じ。

「いじめ自殺あえて親に問う」吉本隆明がここに書いていることは昨今のいじめ問題に対する私の考えに最も近い。いじめられる側もいじめる側も子供は傷ついている。その元をたどればそれは親なのである。親の問題のしわ寄せが結局は弱い子供に行く。さらに引いてみればそれは月並みだが社会環境の問題なのであり、所詮日本はまだ貧しい国から脱していないのだ。物が貧しいのも嫌だが心が貧しいというのはもっと悪い状態だ。

「硫黄島栗林忠道の士魂」は渡辺謙と梯久美子の対談。今年はこの話題がブームとなった。

「成果主義がソニーを破壊した」天外伺朗の話はまあ分かる。これだけ大きくなったソニーに昔の創造魂がよみがえるかと言われると難しいとは思う。

「不沈の太陽 追悼・白川静」宮城谷昌光。白川静はこれからこの国においてもっと研究・評価されるべき人だと感じた。

赤坂太郎の政治に関連する連載記事はパス。「芋たこなんきん繁盛記」すこし拾い読み。

柳田邦男の「新・がん50人の勇気」は武満徹の下りを読んで後はパス。誰々がいかにがんと闘ったかというのはいまのところ興味ない。

「インド11億人市場の誘惑」。どうでもいいのでパス。「丸の内コンフィデンシャル」「霞ヶ関コンフィデンシャル」全くどうでもいいのでパス。

連載「古事記を旅する タチバナの女 走水から房総へ」。いまはやはり古事記日本書紀が新しいと思う。

「文春夢の図書館」いろんな方が得意の分野の本をあげてコメントするという特集。ぱらぱらと拾い読み。あまり新鮮みのある企画とは言いがたい。

「14歳からの<人生の教科書>100冊」またしても読書ものかよ。パス!。

「嫌われる官房長官塩崎恭久」こいつは坂本龍一の友達なのか。どちらもあまり個人的にはなじめないタイプだな。本人の資質は別として。

「松阪大輔 夫婦で夢見たメジャー」まあ興味ないね。

手嶋龍一の「連載危機の指導者第2回 周恩来とキッシンジャーの握手」一応読む。

郵便局「安全神話」は崩壊する。郵便局のおじさんたちが高度な金融商品を売れるものなのか?はなはだ危なっかしい。為替リスクがヘッジされていない金融商品を素人に売っていいものなのかね。

「往復書簡 神と仏の色即是空」柳澤桂子と玄侑宗久の哲学的往復書簡。題材は重いがそれほど広がらない。

「文春女性作家短編館 蛾(が) 江國香織」なかなかシュールな短編。

「文芸春秋BOOK倶楽部」「本屋探訪」「今月買った本」ツツーッとね。

「運命の人」山崎豊子連載第25回。続きもんなのでパス。

福田和也の連載「昭和天皇 19美しき田園」。これは毎回読んでいる。昭和天皇のみならずその周辺の人物にもスポットをあてているのが面白い。今回は英国の大貴族アソール公や元久留米藩藩主の末裔有馬頼寧などを紹介。

Category: 雑感
Posted by: kaki

中学生がいじめられて自殺するケースが続いている。自殺した本人はともかく、周囲の関係者のショックはいかばかりかと深い同情の念を禁じ得ない。しかしながら、その顛末をめぐっての報道並びに社会の対応には感心できかねる。

この種の事件に対しての報道の扱いは判で押したような筋書きができていないか。すなわち、いじめられる側=善良な(えてして心優しいということになる場合が多い)生徒は周囲からのいわれのない偏見に悩む。自殺の原因になったのは周囲の生徒ではあるが、むしろそれを知っていながら放置し(ということにされる)へたをするとそれをあおってさえいる学校側である。事件が起こってからの学校の対応も不誠実である。こんなけしからん学校側の責任者は糾弾されるべきである、という単純化された図式。

連日騒ぎ続けるマスコミ(特にNHK)によって世の中はそのような空気を作り出しているのではないか?NHKのニュースなどを見ているとことさらに学校だけに責任の目を向けるように誘導しているとしか思えない。いったんこういう世の中の風潮が出来上がってしまうと、たとえ学校側に非が全くなかったとしても「はい、それは私たちの責任です。申し訳ありませんでした。」と屈服して謝らなければすまない状況に陥ってしまうことは明らかだろう。学校側がいわれのない嫌疑をかぶせられ最後には周囲から力ずくで組み伏せられる。これでは逆いじめだ。

そもそもいじめなんてものは昔からあったものだ。集団ができるところにはいじめがつきものだとすら言える。集団心理はその構成員の均質化を求める。しかし個体は様々である。統計学上どうしても均質化に収まりきれない個体はかならずどの集団にも発生する。不幸にして平均値に収まらない個体は目立つが故に周囲から排除される憂き目に遭う。このときいじめられる側の心情には2通りあるように思う。一つは「いや、自分が正しい。自分はお前たちの仲間ではない。」と割り切るもの。もう一つは「たしかにオレって変な奴だよね。みんなと同じにできない自分は排除されてしかるべきだ。」と集団心理に同化してしまうもの。

後者のタイプのいじめられっ子がどうも最近増えているのではないかと思う。戦後押し進められてきた悪平等がその遠因にあるのかも知れない。確かに間接的に学校という環境がいじめ自殺の温床を作ってきたと言えなくはない。しかしだからといって学校だけが悪いと断罪してしまうのは思考停止だろう。なぜなら学校の方も社会の要望を反映するべく動いてきたに過ぎないのだから。なにしろ都市化が進んで社会環境が大きく変わり家庭のふところが極端に狭くなってしまった。学校でいじめてられてもそれをいやしてくれる場が極端に減ってきた。そういうことは置き去りにしながら世の中は「表面的に」どんどん便利になっていく。何が問題なのかも覆い隠されてしまう。

「いじめられ自殺」についてはちょっと考えただけでもかなり根が深い問題をかかえていることが予想出来るのに、周りの対応はどうも学校責任者というスケープゴートを作って単純な「手打ち」を仕組んでいるとしか思えない。

時を同じくして「高校の必須科目を教えていない学校」を国をあげて糾弾するキャンペーンが始まった。こちらの方も「みんな学校が悪い!」ということになりつつある。今日の報道ではこの未履修科目問題の対応で追いつめられた高校の校長が自殺した。

こうした「学校たたき」の結果として今後学校教育はますます萎縮したものになっていくことが予想される。事なかれ主義が横行することであろう。「ひょっとするとこの生徒は自殺するのでは…」と、どんな小さな芽でも摘み取られることだろう。教師の生徒に対する扱いは腫れ物に触るようように遠巻きになっていくのではないかと思われる。形式的なものだけが教授され、人間的なもの、精神的なことは少なくとも「身をもって」教えることはますますなくなるだろう。教育にとってもっとも大切な人間としての土台の部分はもはや学校では形成出来なくなる日が来るのではないかと強く危惧する次第だ。

新生安倍内閣のもとで形をかえた文化大革命が始まっているのではないかといういやな予感がする。そうでなければいいが。

Category: 雑感
Posted by: kaki

世の中では幼児の列に車が突っ込み、プールの排水溝に子供が吸い込まれ、幼児を乗せた車に酔っぱらいの運転する車が追突したりする。私とて被害者の心情を慮ると暗澹たる気分になり心が痛むのであるが、一方で被害者の悲哀ばかりを増幅した報道に対しては事の本質をお決まりのお涙話にすり替えているだけの様に感じている。

こういう報道でのよくある締めくくりに「二度とあってはならない」という言い方がよくなされる。被害者の痛切な思いはそういう言葉でしか表し様がないのかもしれないが、第3者がそういうぼんやりした感想を述べるだけで終わっていいはずはない。現に「二度とあってはならない」ことが次々に起こっているのだから。

事故は起こるものである。予想もしない方角から我々に襲いかかるものである。いかに正論を唱えようと、「悲惨な事故」などあってはならないと声高に叫ぼうと、 一度事故に巻き込まれたら、加害者も被害者もそれで「最後」だ。結局は「自分の安全は自分で守る」しかない。そして、まだ「自分で守る」能力のない子供に対しては特にあらゆる危険を周囲の大人が取り払う必要性があるのだということを肝に銘じておく方が良い。

危険に対する我々の認識はゆがめられていないか疑う必要がある。我々は必要以上に世の中が安全であると信じ込んでいるのではないかと思う。これは多分に商業主義のイメージ操作によるところが大きいのだとは思うが、例えば、車は凶器という認識はいつの間にか取り去られ、「車はお友達」というイメージがあまりにも世間に浸透していないか。

自動車はすべからくオートマ化して苦痛なクラッチ操作がなくなり、CDやカーナビを搭載し、家族がくつろげる居住性を確保し、「さあみんなで楽しく便利な車社会を謳歌しましょう」という雰囲気になっていないか。殊に自動車会社、あるいはそれに関連する産業に従事する会社がスポンサーになるテレビ番組なんかはそういうムードがあふれているはずである。

車のみならず都市にはあらゆる快適性が備えられ、我々は安全で快適な生活を保証されていると錯覚しがちだ。あらゆる行動が「快適に」しかも「楽しく」なったがために、みんなのムードが「ホンワカ」になっちまった。結論をいうとこういう社会全体のお気楽状態が皮肉にも悲惨な事故を生み出す温床になっているのではないか。

Category: 雑感
Posted by: kaki

小泉参拝の是非(そんなことはどうでもいい)はともかくとして、「心ならずも戦場で亡くなった多数の戦没者に追悼の念を持って参拝しているわけで、どこの国でも自然のことだ」というエクスキューズに大いなる違和感を覚えた。

ネットで検索してみたところこの「こころならずも」をめぐって賛否両論があるようだ。その論点は次のようなものだ。『戦争で戦って命を落とした人たちが「進んで」戦地に赴いたのかそれとも「いやいや」戦場に送り込まれたのか。』(小泉首相の「心ならずも」発言

いや、私はこんな字義通りの事で違和感を覚えたのではない。それは言ってみれば「そんな簡単なことばで片付けてしまうのかよ!」、である。かように小泉の発言はいつも言葉足らずで何も表現していない。

じゃ、心ならずも戦地におもむかざるをえなかったのは何故なんだ?それを一度でもいいから説明してみろ。逆に言うとそういう事一切合切を「こころならずも」などという口当たりのいい言葉でごまかしている姿勢が感じられてしょうがない。

どこの国でも戦争に駆り出されていくほとんどの人々は「心ならずも」命を落としていくものなのではないのか。こんな当たり前の事をさも良識のように語ってしまうことに私は「またか」と思ってしまったのでした。

話は変わるが、北朝鮮はあまり靖国参拝に文句を言わないよね。いい奴じゃないか、この事に関してのみは。

136281 (7D:989 Y:155 T:105) [Mode] Since 2004-05-15